“完璧”という病 | 完璧病について定義する

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引用:PexelsKarolina Grabowska

今回はともかく何か書きたいなと思って悶々としているので,要領を得ないところも多いだろうが,考えをまとめるためにも完璧病について書いていく。これは私の中の造語なので精神病の一種だとかそういうのじゃない。心理学的には「完璧主義」という言葉があるようだが,心理学者ではないので学問的アプローチの文章でもない。

完璧という言葉がある。

[名・形動]《傷のない宝玉の意から》欠点がまったくないこと。また、そのさま。「完璧を期する」「完璧な演技」

日常でも使うだろうし,今更意味を確認するまでもないが一応書いておく。
完璧の語源は中国の古典みたい。今回調べてて初めて知った。気になる人はググってくださいw

完璧を目指す事,完璧に至ることが世間では良いことであると扱われている。
仕事であれ,学業であれそれこそ人生であれ完璧である,もしくは完璧にできるだけ近づける事が最善だとする風潮がある。

確かに『欠点がまったくない』という状態は理想的なように思える。
100%の状態に持っていければどんなことであろうと耐えうる。死角もない。
どんなものであろうとも完璧であることが最上でそこに至ることが最も大切だと。
私はそう考えていた。それが常識だと思っていたし,そうなるように行動してきた。

しかし,今までに”完璧”であったことが,”完璧”に至れたことがあっただろうか?

私は3年間の幼稚園教育,9年間の義務教育,3年間の高等教育,10年間の会社員としての経験の中で完璧に物事をやり遂げたことは一度もないのだ。
瞬間では完璧にできたなと思ったが今考えるとそれが果たして完璧だったのか,と疑問符が出る。
数で言えば完璧だと思えたことのほうがもちろん珍しく中途半端が9割9分だ。

それでもなお”完璧”というものに固執しているのはもはや病気で『完璧病』と呼称するにふさわしい。
そしてこの『完璧病』に私は長い間罹っていると言える。

完璧病を定義しておく。文頭にも書いたがこれは私が勝手に作った言葉なのであしからず。

完璧病とは,完璧であることに固執して物事を終わらせられないこと。

と定義したい。

完璧であることに固執』は読んで字の如くだが,更に踏み込んで言うのであれば自分の中の理想に到達することが最低条件となってしまっている状態である。
理想というやつは厄介で自分の中で凄まじく大きなウェイトを占めるものだ。
自分の中の最高の想像を現実に表現しようとするのだからすさまじく苦しむ事となる。しかしこの苦しみの先に自分の理想があるのだからなんとか頑張ってそれを形にしようとする。

こう書くと問題なく正しいアプローチで進んでいるように思える。
だがここに自分の理想を“完璧な”形で表現するという条件が入ると途端に無理難題となる。

残念ながら人は自分の脳内を完璧な形で出力出来るようにできてはいない。
様々な…自身の技量,周囲の環境,精神状態によって完璧ではない状態で出力されてくる。
これはどうしても避けられない。訓練によってどんどん理想に近いかたちで出力できるようになるだろうが”完璧”であることは永久にない。

特に何かを始めたとき,つまり初心者は陥りやすいと思う。
自分の中には理想があるが実際にやってみるとそれとはかけ離れた状況になる。理想を100%だとすれば10%行けば良いほうだと思う。でも落差が大きすぎるから心理的に打撃を受ける。
なんとか頑張ろうともがけばもがくほど理想と今の技量の差を目の当たりにする。
そして「俺には向いていない」とか「俺のやりたいことではなかった」と言ってやらなくなってしまう。もちろん本当に向いていなかったり,やってみたら楽しくなかったりということもあるだろう。本当にそうであればそれでよい。
そうでないのに諦めてしまうのは違う。ただただ自分の無能さを噛み締めて終わりだ。後に残るのは敗北感と失敗したという事実のみ。救えないのだ。

では後半部分『物事を終わらせられない』とはなんだろうか。
個人的な考えとして物事を終わらせるとは自分の中で無理矢理にでも納得をつける作業だと思う。
これは自分の中の評価軸の話で,仕事等で外に評価軸があるならその最低限は超えなければならない。

納得とはなにか。
辞書で調べると「《名・ス他》他人の考え・行為を理解し、もっともだと認めること。」と出てくる。調べてみて初めて知ったが自分の行動に納得は使えない。自分に対して使うことは誤用だと言えるがここでは使わせてほしい。自分の行動は自分の考えに対する答えだから自分で自分の行動に納得することはおかしいということだろうか?確かに理にかなっている。まさしく納得。

閑話休題。

自分の行動を終わらせる=自分に納得することであると書いたが,自分の”行動”に納得するのだろうか?
私の考えとしては”行動”に納得するのではなく“成果・結果”に納得することだ。
おそらく行動については自分の全力をぶつけたであろう。仮に体調が悪かったりしてうまくいかない要因があったとしても自分の行動であるからそこは自分がよくわかっている。
だとすれば納得の先は行動の成果である結果だ。
自分の理想とするラインを超えていようが超えていまいが結果に対しては納得しなければならない。
これが自分の今の技術だと納得しなくちゃならない。

「「納得」は全てに優先するぜッ‼でないとオレは「前」へ進めねえッ!「どこへ」も!「未来」への道も!探すことは出来ねえッ‼」という名台詞がある。
このセリフにすべてが集約されていると思うが納得とはこういうことだと思う。
納得ができればそれについてケリを付けることができる。実際の成果がどうであるかは関係なくて自分の中で「今はここまでだ。私は最善を尽くした」と思うことが最重要だと思う。

自分の中での精神的な区切り,それが納得という行為であると私は思っている。
他人の評価は関係がない。自分のなかでどうであったか。それが重要だ。

そして後半の”「前」へ進めない”という部分。一般の認識とは違うが「始まり→終わり」ではなく「終わり→始まり」であり「終わり=始まり」だと考えている。
ゴールは行き止まりではない。生きている限りゴールは次のスタートであってそこで物事が何もかも完全停止するわけではない。どんな出来事であろうと次はやってくる。それも間髪入れずにやってくる。自分では気づいていないが終わった瞬間に始まっている。

完璧病とは,完璧であることに固執して物事を終わらせられないこと。

と書いたがこれを言い換えるのであれば

完璧病とは,理想に執着し,現実の結果に納得できず,新たなことを始められないこと。

と言えると思う。
結果に納得できなければ,それに固執し,新たなことを始められないから成長することができない。自分を新たな状況に持っていくことができない。
その状態になってしまうことを私は一番恐れる。

ところで雑魚病というものがある。

これは勝つために戦う」というゲーマーが頂点を目指すために如何にすべきかを書いた記事があるのだがその中に出てくる概念だ。

「雑魚」という言葉は様々な意味を持つ。そのうちの1つは何か(例えばゲーム)があまり上手でない人間の事だ。この定義に従えば、我々はみな雑魚として始まる。それを恥じる事は全く無い。だが私はそれとは違う意味で「雑魚」という言葉を使う。雑魚とは、自分で作った規則に縛られて満足に戦えないプレイヤーの事だ。

(中略)

誰も皆、最初は弱いプレイヤーとして始まる。自分のしている事を理解するまでには十分な練習が必要だ。だがここに重大な誤解がある。ただゲームを続けて「練習」するだけで、誰でもトッププレイヤーになれるという誤解だ。現実には、「雑魚」はまず多くの心理的障壁を乗り越えなければ先へ進めない。雑魚は戦う前に負けている。

引用元: 翻訳記事:勝つ為に戦う(4) byスパ帝国

私なりに雑魚病を解釈し,定義するのであれば

雑魚病とは,自身の作り上げたルール(心理的障壁)に足を引っ張られ必要な行動を取れない,もしくは必要な行動がわかっていないこと

とする。

どうしてわざわざゲーマーの心得みたいな関係なさそうなことを取り上げたのかわかると思う。
完璧病と雑魚病はほぼ同義である。
元々完璧病について私は定義できていなかったのだがこの記事を読んだことがきっかけで書くことができた。

理想を辞書で引くと「考えられるうちで最高の状態のこと」となる。
ミソは”考えられるうち”であり,理想というものは全人類が当たり前の共通認識として持っているものではなく,各人がそれぞれの内に持っているものだ。
言い換えれば理想は自分が決めた「条件」であり,その条件が本当に必要な条件であるかを見直す必要がある。雑魚病で言えば自分の作り上げたルールである。
自分の目指そうとする理想=条件が適切であるかを事前に評価することは必要だ。
その条件が本当に必要なのか,その条件を課したときに自分が達成できる見込みがあるのか。それを事前に評価できなければ高すぎるハードルを前に膝を折る事となる。

顧客が本当に必要だったものという有名な絵があるが自分がこれと同じ轍を踏んでいないかを確認する必要がある。自分の想定する理想は高すぎないか,必要十分か?自分の理想にほかの理想を付け足していないか?理想を見失っていないか?理想を追い続けられるか?理想を追うだけのリソースはあるか?

雑魚病に話を戻す。

元記事の中で雑魚病は2つの要素がある。
ひとつめは「自分の作り上げたルールに縛られ,勝つための行動が取れないこと」
ふたつめは「失敗を受け入れられず負け犬になること」

ひとつめの「自分の作り上げたルールに縛られ,勝つための行動が取れないこと」
ゲームに勝つことが目標であり,ルールに反しないことはなんでもやるべきだ。雑魚は自分の中に「こうするべき」というルールを勝手に作っており勝つために戦うことをしない。雑魚の言う「せこい」戦術であろうと有効であればどんどん使うべきだし,「せこい」戦術を使われたならそれを破る方法を見つけることが勝つために戦うことである。

ふたつめの「失敗を受け入れられず負け犬になること」
①「せこい」戦術に負けて「せこい!」と避難すること。自分の中のルールに照らし合わせて相手を見て負けたことを受け入れない。せこい戦術を破れなかったことを棚に上げる行為
②プライド故に相手の力量を認められないこと。負けておきながら相手の失敗を槍玉に上げ「だから俺は負けたが相手は弱い」と考えること。
③自信がなさすぎるゆえに負けて当たり前だと悲観すること。試合前や最中にこう思うとあとは投げやりになるだけ。自分の優位があるならそれを信じ,ないなら優位を作らねばならない
④クソゲー,運ゲー,つまんねーとゲーム自体のせいにすること。この言葉を免罪符に使うことによって思考停止している。
①~④までにすべて共通することは失敗から学ぶという機会を奪っていること。失敗したのであればそこから学び,また挑戦せねばならない。

これはゲームであるから『勝つこと』が命題であるが現実においては『終わらせること』に置き換えてほしい。
ひとつめを解釈すれば自分の中に理想に固執するばかりに勝手に制限をかけて終わらせられていないのではないだろうか?どこまでも納得できずに前にも後ろにも進めず身動きが取れなくなるということはままある話である。そして投げ出してしまう。
ここまで理想を悪く言っているが理想自体は悪くない。おおいに理想を抱くべきだが,そこを最低限として置いてしまうと息が詰まる。自分が無能に思えて仕方がなくなる。
雑魚病と同じ用に自分のつくったルール(理想)にがんじがらめにされてしまっている状態だ。まずは今やっていることを終わらせるべきで終わらせるためならどんな手でも使うべきだ。

そしてふたつめ。失敗をしたあとの話だ。
1つ目の続きであるがどんな手を使ってでも終わらせたのであればそこからなにがいけなかったのかを学ぶことができる。
ハードルが高かったのか,自分の技量を過信していたのか,精神的に悪かったのか。
失敗することに罪悪感を覚えてはならない。それを回避しようとして学ぶ機会を喪失することは大変な損失だ。①~④のように失敗を素直に受け入れないとその先には進めなくなる。非難したり妬んだり必要以上に自信を喪失したり考えなしになっていないだろうか?

雑魚病に共通するものとしては「周りの目」とか「同調圧力」的なものがあるように感じる。
失敗をしてはならないという風潮,周りの目すなわち評価を恐れて行動しないこと,そういったことが雑魚病の中にある。
ゲームで言えば周りが暗黙の了解としているから寒いプレイはしない,雑魚病患者から非難されるから勝つための行動を取れない。それと同じで努力しなければ成功しないとか,苦しむからいいものが生まれる,才能がないからだめ,他人より下手だからやらないというのは雑魚病だと言えるだろう。

すなわち完璧病を脱するのはいままで書いてきたことの逆の状況を作りだすことにある。

1.完璧であることをやめること
→自分の到達できる目標を設定すること

2.終わらせること
→自分の成果に対して納得すること

3.終わらせたらはじめること
→終わらせることは次のスタートだと言える

4.雑魚病にかからないこと
→自分で自分を縛らず,失敗を受け入れること

この4項目が必要であろう。

残念ながら人生は限りがあり,なにかに打ち込める時間は短く,自分の持ちうるリソースは少ない。

完璧であることを放棄し,妥当な理想に対して目標を失わず行動を終えられ,結果に対して納得することができる

ということを一つ指針としたい。

なんか途中から集中力切れ的なところがあって尻切れ感が出てしまったように思う。
ともかく自分の考え,思考の記録として一度ここに公開することにする。

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